我が青春の時を思い出して |
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我が青春の時を懐かしく思い出して(月光とピエロ) 学生の頃に私は某混声合唱団に属していました。 この合唱団は元の某放送合唱団で、厳しい全体練習やパート練習で苦しんだ事が、今ではとても懐かしく感じています。 ふと、youtubeに当時に歌った「月光とピエロ」が無いかと検索してみました。 有るのですね! 勿論、私の合唱団のデータでは有りませんが・・・・。 「月光とピエロ」は、堀口大學の作詩に清水脩先生が作曲した合唱曲です。 私たちは混声合唱団ですが、この曲は男声合唱で歌われる事が多く、私たちも男声合唱で歌いました。 私のパートはテナーですが、トップテナーでなくてセカンドテナーに配属させられました。 以前、四線譜のネウマ譜の説明のときに、私たちの合唱団が日本で最初に完全な演奏形式で「カール・オルフ作曲のカルミナ・ブラーナ」を歌ったとき、混声八部に分かれて、その時もセカンドテナーで歌ったと記載いたしました。 やはりこの曲の時でも、主旋律を歌うトップテナー(混声でしたら、女子のソプラノ)が目立ちますので、どうしてもセカンドテナー配属では・・・。どこか力が入らなかったように覚えています。 今回のデータを聞きながら、大昔(約三十五年前)に歌ったこの曲の自分のパートを忘れずに、一緒に歌えるのがとても懐かしく嬉しく感じています。 下記の青色の大きな題名の部分をクリックすると、youtubeの該当ページが新しく開いて演奏が始まります。 名曲ですので、是非ともお聴き下さい。 1.月夜 2.秋のピエロ 3.ピエロ 4.ピエロの嘆き 5.月光とピエロとピエレットの唐草模様 伊吹新一先生指揮、京都楽友合唱団の皆様の合唱 「月光とピエロ」 をお聴き下さい。この合唱は混声で歌っていて、少し私たちの合唱と違うように感じてしまいます。 男声合唱のデータが無いかと探しました。やはりこの曲は元々男声合唱曲として作曲されていますので、男声合唱のデータが有りましたので、お聴き下さい。 やはり、この合唱の方が私的にはシックリとします。 福永先生指揮、日本アカデミー合唱団の皆様の合唱 1.月夜(月光とピエロ) 2.秋のピエロ 3.ピエロ 4.ピエロの嘆き 5.月光とピエロとピエレットの唐草模様 如何でしたか?最初にお聴きになりました混声合唱と男声合唱は、全然違った歌曲に聞こえませんでしたか? 皆様も若き頃、まだ若い方は幼い頃の楽しかったそして懐かしい思い出に浸ってみられては如何ですか? |
堀口大學 愛蔵版詩集シリ-ズ 「月光とピエロ」 |
堀口大學 作詩、清水脩先生 作曲 CD「月光とピエロ」 |
我が青春の時を懐かしく思い出して(水のいのち) 混声合唱組曲「イソップ物語」のデータを探していました。 でも、見付ける事が出来ませんでした。少しだけ歌われていない曲なので、データが無いのかも知れません。 見付けたら、また更新致します。 さて、混声合唱組曲(1964年)「水のいのち」をお聴きになられた事は御座いますか? 田三郎先生が作曲し、高野喜久雄さんが作詞され、合唱曲としては有名すぎる歌曲です。 勿論、私達の合唱団も歌っています。 第1曲「雨」(Lento tranquillo) - 変イ長調 第2曲「水たまり」(Moderato) - ト長調 第3曲「川」(Risoluto) - 変ロ短調 第4曲「海」(Adagietto) - ニ長調 終曲「海よ」(Andante) - ニ短調 ではお聴き下さい。 山形大学混声合唱団第40回定期演奏会OBステージより 雨 混声合唱組曲「水のいのち」より みずたまり 混声合唱組曲「水のいのち」より 川 混声合唱組曲「水のいのち」より 海 混声合唱組曲「水のいのち」より 海よ 混声合唱組曲「水のいのち」より 岩手大学合唱団第53回定期演奏会の演奏より 「水のいのち」 より 「雨」 「水のいのち」より 「水たまり」 「水のいのち」より 「川」 水のいのち より 「海」 水のいのち より 「海よ」 嚶鳴女声合唱団 東京演奏会より 雨 女声合唱組曲「水のいのち」より みずたまり 女声合唱組曲「水のいのち」より 川 女声合唱組曲「水のいのち」より 海 女声合唱組曲「水のいのち」より 海よ 女声合唱組曲「水のいのち」より 田三郎先生の曲は、毎週日曜日に歌って居ますので、私にとってはとても身近な存在です。 本来だったら、日本の合唱曲の中でも一番歌われているこの曲をご紹介しないといけなかったですね? でも、「月光とピエロ」を歌っていて、youtubeにそのデータが無いかと思って、検索したのがこの切っ掛けでしたので・・・・。 混声合唱のことばかり書き込んでいますが、歌う事が私の青春の大きな部分でしたので・・。 他の事も書きたいと思っています。これからもこのページを宜しくお願い致します。 |
「水のいのち」楽譜 |
「水のいのち」CD |
我が青春の時を懐かしく思い出して(グラシエラ・スサーナ) 皆様も同様だと思いますが、学生の頃は色んな事で忙しかったのではありませんか? 私も音楽に関して、とても忙しい日々を送っていました。 合唱団の練習、個人的なネウマ譜(四線譜の楽譜)で書かれた歌曲の解読や研究、フォルクローレ(南米インカ文明の民俗音楽)の考古学的研究とケーナなど楽器の演奏、インドやバリ島などの民俗音楽の研究、或るグループでのギター演奏に依る歌唱指導・・・などなど。 とても同世代の学生と音楽などで話が合う事も無く、コンパでも一人輪の外で居る事が多い偏屈な男子学生でした。 当時流行ったフォークソングや歌謡曲など聴く機会も歌う事もない私でしたが、唯一歌謡曲のジャンルで狂って居た事が有りました。 それは大ファンだった「グラシエラ・スサーナ」の歌を聴くのが大好きだった事です。 下宿の近くに、ご主人が中米でお仕事をされていたと云う美人の奥様が、趣味で喫茶店を開いて居ました。 そのママ(奥様)はフォルクローレが大好きで、小さな喫茶店には当時でも何百万もするスピーカーとアンプなどやグランドピアノが置いてあり、私が入店すると片っ端からレコードを聴かせて呉れて居ました。 ほんのモーニングサービスを食べるだけのつもりで行っても、帰れるのは夕方になるほど・・・フォルクローレ談義に引っ張られていたのが毎日のことでした。 朝御飯は勿論無料、お昼に「カレーでも食べる?」と勝手にカレーを出して呉れて、カレーもサービス、そんな状況でフォルクローレを聞かされるのですから、途中で帰る事も出来ません。 ママさんと意気投合してファンになっていたのが「グラシエラ・スサーナ」の歌だったのでした。 ある時、日本に来たグラシエラ・スサーナが近くでコンサートを開催しない事が判り、甥が学生で住んで居た名古屋でコンサートが在る事を知った私は、名古屋まで彼女の歌を聴きに行った事があります。 その時の土産として、発売したばかりのレコードとポスターを持って喫茶店に入店しました。 「はい、お土産!」 「有り難う!これは・・・スサーナのレコードね!でも、私、買っちゃった!」 「えっ!どうして?」 「あれ?知らなかったの?一昨日、武道館でグラシエラ・スサーナのコンサートが在った事を?」 「嘘!こっちで調べて無いと判ったから、名古屋まで行って来たのに・・・・。」 ・・・今となっては、この事も楽しかった思い出になります。 思い出のグラシエラ・スサーナの歌をお聴き下さい。 Graciela Susana - El Condor Pasa Graciela Susana - Gracias a la Vida Graciela Susana - Luna Tucumana Graciela Susana - La reine de Saba Graciela Susana - La reine de Saba Graciela Susana - Adoro Graciela Susana - El Reloj Graciela Susana - 粋な別れ (LIVE) |
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我が青春の時を懐かしく思い出して(カルミナ・ブラーナ) 私が属していた混声合唱団でも、第9やメサイヤなども良く歌っておりました。 しかし、やはり何か物足りないように思って居たのは団員ばかりでなく指揮者の先生も同様だったと思います。 ある日の事、指揮者の先生から渡された分厚い楽譜・・・・。 見ると日本語など一切無い楽譜で、よく見るとラテン語・・・それにドイツ語?でも古そうな感じ・・・と私は思っていました。 指揮者の先生が、「大昔の中世の吟遊詩人や若き騎士達が諸国を渡り歩きながら、歌っていたのがカルミナ・ブラーナと云う歌曲になっているが、これはカール・オルフが作曲したカルミナ・ブラーナです。」 「次回の定期演奏会は、この曲で行きます。」 団員達の中にどよめきが起こりました。 だって、定期演奏会の前に、二回も演奏会が有るのに・・・・先生は一体練習をどの様にするのかと・・・・。 それからは、血反吐が出るほどの合唱練習が続き、夏の強化合宿も例年とは違って血眼になった団員達が右往左往していました。 やっと定期演奏会を迎えます。 私達はこれまでの練習の成果を思いっ切り聴衆の皆様に披露しました。 日本で最初の完全な形(合唱・交響楽団・舞踏)のカルミナ・ブラーナの演奏会は、割れんばかりの拍手とスタンドオベーションで幕を下ろしました。 これまでの演奏会と違って、達成感と深い満足感を感じながらステージを下りたのを覚えています。 ネウマ譜(四線譜の大昔の楽譜)の説明を致している私の他のページでも、このカルミナ・ブラーナについて触れています。 どうぞ、そのページもご覧下さい。ページの真ん中辺りで説明をしています。 研究者の独り言 youtubeのカルミナ・ブラーナのデータです。お聴きになられる前に・・・。 この曲は大曲なので演奏時間が一時間十一分ほどかかります。お時間の有られる時にお聴き下さい。 本当に名曲です。是非とも御視聴を!! ↓ ↓ ↓ Carmina Burana |
楽譜 オルフ/カルミナ・ブラーナ(スコア)
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オルフ:『カルミナ・ブラーナ』 小澤征爾 指揮
【DVD】
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今もって「カルミナ・ブラーナ」の最高の演奏として名高い録音
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中世の吟遊詩人達が歌っていた「カルミナ・ブラーナ」
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我が青春の時を懐かしく思い出して(クリスティーナとウーゴ) 以前の記事で、私がグラシエラ・スサーナの大ファンだった事を書きましたね? 彼女を知る切っ掛けが、彼女の姉夫妻のクリスティーナとウーゴの演奏会に良く行っていたからです。 でも、グラシエラ・スサーナは演歌じみた歌を歌う変な外人と云うイメージで、最初はグラシエラ・スサーナを毛嫌いしていました。 グラシエラ・スサーナがクリスティーナとウーゴの妹だと知って居たら、もっと早くファンになっていたと思います。 その事を知ったのは、以前の記事で書いた喫茶店のママさんが教えて呉れたからです。 たぶん、その喫茶店に行っていなければ、一生、グラシエラ・スサーナのファンになっていなかったと思います。 前置きが長くなりました。 今回は、大好きだったクリスティーナとウーゴの曲をご案内致したいと思います。 ご存じのように、確か1983年くらいだったと思いますが、日本公演を終えて彼らの国アルヘンティーナ(アルゼンチン)へ戻って直ぐに、交通事故に遭って、夫婦二人とも一緒に亡くなりました。 ソプラノの美しく澄んだ歌声に、寄り添うように控えめなウーゴの歌声・・・。 その二人を見る度に理想の夫婦像を見る思いがしました。 Cristina y Hugo - El condor pasa Cristina y Hugo - El Condor Pasa Cancion Tradicional Peruana Folklore Latinoamericano (ペルーの伝統的なラテンアメリカの民間伝承の歌) クリスティーナ&ウーゴ - 亡びゆくインディオの哀歌 Cristina y Hugo - Cancion del derrumbe indio 滅びゆくインディオの哀歌 Cristina y Hugo - Volvere a los cerros Cristina y Hugo - La vicunita Cristina y Hugo - Cuando tenga la tierra クリスティーナ&ウーゴ - この愛の歌 Cristina y Hugo - !Ay ,mi amor! 如何でしたか? おしどり夫婦の美しい歌声は? 懐かしい二人の歌声を聴いていると・・・つい・・・・目から・・・。 私の懐かしい青春時代のシーンが走馬燈のように浮かび上がってきました。 是非、皆様も懐かしい青春時代の思い出に浸って下さい。
曲目タイトル: [Disc1] 『定番ベストセレクション: 花祭り〜クリスティーナとウーゴ』/CD アーティスト:クリスティーナとウーゴ 曲目タイトル: 1.コンドルは飛んで行く[3:13] 2.太陽への賛歌[3:04] 3.風になびくスカート[2:22] 4.この愛の歌[3:45] 5.平原の魂[3:00] 6.トゥクマンの月[3:15] 7.牛車にゆられて[3:22] 8.山の花[3:16] 9.私たちは3人[3:20] 10.インカ帝国の悲しみ[3:33] 11.インカの父[2:43] 12.火の鳥[3:29] 13.木こりのわが子への歌[3:32] 14.蜃気楼の歌[3:25] 15.花祭り[2:50] 16.コンドルカンキ[2:50] 17.ノスタルヒアス(郷愁)[4:26] 18.インディオの道[3:02] 19.太陽の乙女たち[2:58] 20.アチャチーラス[3:05] 21.ク・ク・ル・ク・ク・パロマ[3:58] 22.リォーハのクリスマス・ソング[2:26] 上記のCDから 「16.コンドルカンキ[2:50]」と「19.太陽の乙女たち[2:58]」の二曲が無いのが下記のCDです。
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我が青春の時を懐かしく思い出して 皆様は大昔の白黒の映画を御覧になられた事が御座いますか? 私は映画少年でしたので、勿論のこと多くの映画を見てきました。(実はラジオ少年、無線少年、鉄道少年でもありましたが・・。) 私はミュージカル映画をよく観ていました。下記の作品は「総天然色(昔はカラー作品をこの様に読んでいました。)」です。 「サウンド・オブ・ミュージック」 「ソング・オブ・ノルウェイ」 「チキ・チキ・バン・バン」 「メリー・ポピンズ」 などなど。 東日本大震災で、日本全国が落ち込んで居る時、また失業なさっている方々や、一生懸命に努力なさって居られるのに認められてない方々に是非この映画を見て戴きたいと思います。 「オーケストラの少女」 最初にこの映画を見たのは小学校の時でした。 この時はクラッシクもそれほど聴いていなかった時期なので、綺麗な曲が世の中には有るのだと思いながら見ただけです。 二回目が中学生の頃で、この時も失業している楽団員の境遇が、私にはそれ程身近に感じませんでした。 しかし、映画の影響を受けて、この時期から本気になって音楽(声楽)をする気になったと思います。 三回目が大学生の頃で、昔の白黒のメドレー企画の映画館があって、チャーリー・チャプリンの作品を始めて、懐かしい映画が連日上映されていました。 その中にこの作品も当然の如く入っていた訳です。 その頃、私は元の某放送合唱団の団員で、自分達の演奏会の為に、その演奏会のチケット売りをしたりしていましたので、何となく彼らの境遇に共感したのを思い出しました。 それ以降は数えられないほどこの映画を観ていますが、やはり名作の一つだと思います。 実は今日も朝から、ティッシュ片手に久し振りに観てしまいました。 24日から使えなくなるテレビを、ビデオ再生専用にする為に移動して、セッティングの後に観たのが、この映画のビデオです。 どういう訳か、モーツァルトの「ハレルヤ」の場面で涙を流し、「ハンガリアン・ラプソディ」の場面でも涙涙の連続・・・。 そして最終場面の「ラ・トラビアータ」の場面では、映像をまともに見れないほどの感動の涙でした。 私は子供の頃からなりたい事が沢山ありました。 物心付く前から絵筆を握らされ、画家に憧れた事も、そして声楽家の先生に付いて声楽を習って音楽家に・・・。 そして小学校の二年生の時に読んだハイエルダール博士が書かれた「コンチキ号漂流記」に刺激されて考古学者にも、他には火山学者、古生物学者・・・・。 結局、父が旧海軍の軍属の機関技師だった関係で、工学系に進みました。 研究所を辞めた今、研究所と云うバックボーンを持たない自分は、この映画の失業した楽団員にとても共感を感じてしまいます。 また、一時的にせよ合唱団員だった自分は、この映画のように音楽家のほんの一部しか表舞台に立つ事が出来ないのを良く知っています。 奇しくも、この映画の台詞に「君たちがどんなに優れた演奏技術を持っていたとしても、無名では価値がない。誰でもが知っている有名な指揮者と一緒に演奏するのだったら、客が来るだろう。」 この台詞は、芸術系だけでなく工学系でも、一般社会に通用する事かも知れません。 そう言えば、少し前にヒットした「送り人」の主人公も、しがない楽団員で交響楽団の閉鎖に伴って失業した話でしたね?その原作者の方の小説も長い間、その作品が売れなかったと聞いています。 こんな書き方をすると、「努力だけでは駄目!有力なコネが無いとどうしようも無い!」と読めてしまうかも知れません。 映画の中でも、名指揮者レオポルド・ストコフスキーが彼ら失業中楽士達の実力を認めて、彼らの楽団を指揮する事になったのです。 ですから、努力を重ねて自分自身を懸命に磨き続けたら、きっといつの日にか世に認められるのでは無いかと思っています。 この映画では主人公のディアナ・ダービン扮する「パシィ」が、失業中のトロンボーン奏者の父親の就職口を探して、名指揮者のレオポルド・ストコフスキーに何度も働き掛けて、やっと自分達が作った失業楽団員の指揮をして貰える様になる展開の映画です。 それから、この映画は、名指揮者レオポルド・ストコフスキーと実在のオーケストラであるフィラデルフィア管弦楽団が出演している事でも話題になった映画です。 簡単にあらすじを紹介して、ロシア語版ですがその場面のyoutube の映像データリンクを挟んで置きます。 ロシア語が大きな声で、本来の英語の台詞が聞き取りにくいですが、どうぞご覧下さい。 One Hundred Men and a Girl 1 レオポルド・ストコフスキーが指揮する、チャイコフスキーの第5シンフォニーの演奏会。 その舞台袖に隠れて演奏を聴いているのが、「パシィ」の父親のジョンの姿でした。 彼は、名指揮者ストコフスキーに楽団員に加えて貰おうと、楽屋裏に潜入して居るのでした。 演奏が終わってストコフスキーに入団の依頼をしようとするが、しかし、コンサートホールの管理人に見付けられて追い出される羽目に・・・。 外に追い出された彼は、目の前で婦人が落としたハンドバッグに気が付く。落とし主を捜すが判らない。 仕方なく、そのまま持ち帰るが、帰宅するとアパートの大家さんから、「明日こそはアパートを出て!」と通告されてしまう。 ふと、彼はあのハンドバッグから金を抜き出すと、滞納した家賃を支払ってしまった。 「このお金は?ストコフスキーに認められたのね!」と、嬉しそうに騒ぐ大家に否定しようとした時、娘のパシィが部屋から出てきて大喜びを始める。 One Hundred Men and a Girl 2 仕方なく、彼は娘を連れて自室に戻り、事訳を話そうとするが出来なかった。 > アパートの住人達が祝いの席を設けて彼を祝福する。 ジョンは娘に楽団の演奏練習に向かうと言って家を出るが、いつものホールに行った。 パシィは父親の練習風景が見たくなって、演奏会場に潜り込むが、そこには父親に姿が無かった。 娘は、父親のおかしな態度に気が付いて「あのお金は?」と説明を求め、父親はボソボソと話してしまう。 パシィはそのハンドバックを受け取って、持ち主を捜して返しに行く。 社交界のパーティにその婦人は居た。 One Hundred Men and a Girl 3 パシィはそのハンドバックを返すが、「返す褒美に52ドル10セントを貰いたい」と申し出る。 「おかしな事を言う子ね?」と言いながら、その夫人はお金を支払うが、「それをそのまま貴女にお渡しします。」と言って受け取らない。「どうして?」と聞かれたパシィは、「実はお金を少し使ってしまいました、それにここまでのタクシー代も・・。失礼します。」 そこから去ろうとするパシィを呼び止めた婦人は、パーティーに一緒に加わるように勧めた。 自己紹介して、自分の父親が失業中の楽士で、その父親から声楽を習っていたと聞いた婦人は、彼女に一曲歌うように頼む。 頼まれたので歌うと大きな拍手が・・・。 パシィは失業中の楽士は父親だけでなく、多くの楽士が仕事がないと訴える。 一人が「だったら楽団を作れば良いだろう!」と答えた。 実業家婦人に「私が楽団を作ったら、スポンサーになって頂けますか?」とパシィは頼み込む。 「貴女が楽団を作ったら、スポンサーになってあげるわよ!」と答える婦人。 喜んで父親の元へ走るパシィ。 楽士の仲間を集めて良き話を伝えるが誰も信用しない。 そこで、実業家婦人に電話を掛けて、その話が本当の事がみんなに判る。 百人の楽団員が集まって、ガレージを借りて練習が始まった。 パシィは実業家婦人の所へタクシーに乗って向かうが、ヨーロッパ旅行へ出掛けて留守。 そのタクシーの運転手は運転士ながら歌うのが好きだが、物凄く下手。 One Hundred Men and a Girl 4 そこで主人の実業家の所へ行くと。 実業家はパシィの願いを悪友の悪戯と勘違いして、スポンサーになる事を了解する。 しかし、この事が悪友の悪戯でない事が判った実業家は慌てて楽団員が練習しているガレージに向かう。 実業家は楽団員に「私は儲からない事には金を出さない主義だ!」とスポンサーになる事を拒否する。 そして「君たちがどんなに優れた演奏技術を持っていたとしても、無名では価値がない。誰でもが知っている有名な指揮者と一緒に演奏するのだったら、客が来るだろう。」と口走りました。 それを聞いたパシィは再びタクシーに乗って、ストコフスキーが練習している練習会場に向かって忍び込みます。 One Hundred Men and a Girl 5 名演奏につい拍手をしてしまうパシィ。 ストコフスキーにコンサートホールの管理人を呼ばれて、追い出されそうになるが、ストコフスキーの事務所にパシィは逃げ隠れた。 その時事務所の電話が鳴り始める。 電話の受話器を外すが、大きな声に出てしまい、新聞社の編集長とは知らずに話し始めたパシィ。 編集長から「ストコフスキーがヨーロッパに出掛けるそうだが。」と言われたパシィは咄嗟に「ストコフスキー先生は、失業中の楽団員の指揮をするのでヨーロッパへは行きません!」と答えてしまう。 編集長は特ダネを聞いたとして、直ぐに号外と新聞の印刷を指示する。 One Hundred Men and a Girl 6 隠れていた事務所にストコフスキーのマネージャーが入って来て、また追い出されそうになる。 ここで待って居るように言われたパシィは、マネージャーがステージに行った隙に、事務所から逃げ出す。 ステージではモーツアルトの「ハレルヤ」の演奏が始まる。 パシィは二階の客席から「ハレルヤ」を歌い出してしまう。 ストコフスキーも楽団員も吃驚して歌声の主を捜す。 彼女は歌い続ける。 ストコフスキーもそのまま彼女の歌声を聴きながら指揮を続けた。 演奏が終わり、指揮者台、ステージから下りたストコフスキーは 「とても良い声をしている。素晴らしく優秀な声楽の先生に習っているのだね?」とパシィを褒める。 「はい、私の父から声楽を習っています。」とパシィ。 「とても素晴らしい音楽家のお父さんの様ですね?」 ストコフスキーから褒められたパシィは、 「私の楽団には他にも優秀な演奏家が居ますが、みんな失業中です。」 パシィがそう言うと、楽団員達が一斉に笑い出した。 「笑うなんて失礼でしょう!」と怒り出す。 ストコフスキーはみんなをたしなめる。 パシィがストコフスキーに、 「私の楽団の指揮をして頂けませんか?」と頼み込むが、 「私はヨーロッパへ行って、他の楽団の指揮をする予定が有るから・・・。」と断られてしまう。 「いつお帰りになられますか?」とのパシィの問いに、 「半年後になる。」 パシィは落胆してコンサートホールから出て行く。 外ではパシィの歌を聴いたタクシーの運転手が待ち構えていた。 「お嬢さんの歌は綺麗だったね!魂を持って行かれるってこんな事を言うのだ。」と褒めちぎる。 「さっき、俺の歌が変だと言うのも判る。あんなに綺麗な歌は聴いた事がない。」 タクシー代のお金が無いと言うパシィに家まで送ると言った運転手。 アパートに帰ると、心配していた父親とフルート演奏者が待って居た。 One Hundred Men and a Girl 7 パシィは自分の部屋に入ると泣き出した。 「お父さんの誕生日には七面鳥を・・・毎日豆ばかりの食事なんか、もうイヤ!」 その頃、巷ではストコフスキーが失業楽士を指揮すると号外が配られている。 かの実業家が、その記事を読んで、編集者に抗議すると言い出すと、同席している悪友の実業家達が、興味を示す。 「それじゃ、その公演する権利を譲って貰えるか?」と悪友の一人が。 「もちろん、こんな事に金など使えるか!」実業家は答えた。 「それを貰った!」と一人が言うと、もう一人が「イヤ、私が貰う!」と言い争いを始めた。 これは儲け話だと思った実業家は密かに部屋から出て行った。 One Hundred Men and a Girl 8 電話で新聞社の編集長に記事を確認したパシィは、自分がその発信源だと思い当たる。 そこへ実業家が現れて、「3000ドル出すから契約しろ」と小切手を切ると去って行った。 喜んだパシィの楽団員は、パシィを机の上に上げて讃えようとするが、パシィは「今回の事は私が起こした事です。」とみんなに伝えた。 ストコフスキーの自宅を訪問した実業家は、ストコフスキーが失業音楽家の楽団の指揮をする、その意思が無い事を知り「訴えてやる!」と言って退去する。 その後に、ストコフスキーの邸宅に忍び込むパシィとその楽団員・・・。 ストコフスキーは自室で、J.S.Bachのトッカータとフーガ ニ短調を弾いている。 One Hundred Men and a Girl 9 懸命にピアノを弾いていたストコフスキーは、部屋に入って来たパシィの姿がピアノに写ったのに気が付いて振り返る。 「来ては行けない所にばかりに来る子だね!これには何か理由が有るのかい?」 「ええ!理由があります!その理由を聞いて頂けますか?」 パシィの答えに頷くストコフスキー・・・。 「こちらへ来て下さい!その理由はこちらです!」 「一、二、三、四」と叫ぶパシィ。 ストコフスキーがパシィを見ているとと「ハンガリアン・ラプソディ」の演奏が始まった。 困惑したストコフスキーが「止めるように!」と言いかけるが、階段ホールまで進むと、一階、二階、三階とそれぞれの階段一杯の楽団員が自分を見詰めて懸命に演奏している。 演奏を聴いている内に、無意識に右手が動き始める。 そして演奏に合わせて、指揮を始める。 最初は不安そうな表情で演奏していた失業楽団員も、指揮を始めたストコフスキーの姿に笑顔を浮かべて演奏を続けた。 また町に号外が・・・。 「今晩、ストコフスキーが失業音楽家を指揮する」と・・・。 演奏会・・・・ 演奏が終わり、スタンディング・オベーションと割れんばかりの拍手。 「私とこの楽団員に幸せをもたらせて呉れた功労者が居ます。」 ストコフスキーは観衆にパシィを紹介する。 「パシィ、皆様にご挨拶を。」 「え!私が・・・」 「そう!挨拶して」 「紳士、淑女の皆様・・・」 「頑張って!」 「皆様・・・・」 突然、二階席から、 「何か歌って呉れよ!」の声が。 タクシーの運転手がウィンクをして見せた。 「判ったわ!」と嬉しそうなパシィ。 「何を歌いますか?」 ストコフスキーが問い掛けると、 「ベルディのトラビアタ」を、微笑んでパシィは告げた。 ストコフスキーは「トラビアタを。」と言って指揮を始める。 歌い始めたパシィ。オーケストラを振り返って父に微笑む彼女。父も娘に微笑み返す。 先ほどのタクシーの運転手は周りの観客に自慢げな顔をした。 幸せそうに歌っているパシィ・・・・。 終 簡単なあらすじを記載致すつもりが、しっかりと細部まで書き込んでしまいました。 私のあらすじでは感動を得られないと思います。申し訳有りません。 |
また、ここでご案内した大声のロシア語版の細切れの映像では、これもまた感動を得られないと思います。 下記のDVDで御覧になれば、心温まるこの作品を鑑賞する事が出来ると思います。
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我が青春の時を懐かしく思い出して 前回の記事が白黒映画でしたので、今回は総天然色(カラー作品)の映画をご案内致します。 実は朝からずっと「シェルブールの雨傘」を観ていました。 最初は何気なく「雨に唄えば」を観ていたのですが、ふと「シェルブールの雨傘」を思い出して見始めたのです。 フランスのコタンタン半島の先端に位置する港町であるシェルブール。 ここは大昔からの軍港で、海軍の施設が多く存在しています。 第二次世界大戦の時は、この港を占領していたネチス・ドイツ軍と連合軍が、ノルマンジー上陸作戦と同じ様な激戦をこの町で行っていました。 それから、直ぐ近くのラアーグ岬には、使用済み核燃料の再処理施設が在る事でも有名な町ですね? 使用済み核燃料から取り出したプルトニウムをウランと混ぜたMOX燃料も、シェルブールの港から送り出されて日本の原子力発電所で、プルサーマル発電に使われています。 折角の名映画の話が、他の方向に飛んでしまいましたね? この映画の各場面には軍港らしく水兵の姿が多く映っています。 この映画は、全ての台詞を歌で演じる作品として有名で、大女優のカトリーヌ・ドヌーブさんが主演しています。 前回のようにあらすじが長くならないように気を付けながら、ご案内致します。 いつもと同じ様にyoutube のデータをご案内致します。 Les Parapluies de Cherbourg * The Umbrellas of Cherbourg * 最初の画面です。 シェルブールの自動車修理工場の工員ギイと母子家庭で母親が経営している傘屋を手伝っているジュヌビエーブ(カトリーヌ・ドヌーブ)。二人は恋人同士で、二人の愛を育んでいました。 Extrait Les Parapluies de Cherbourg そんな時、ギイにアルジェリアへの徴兵の知らせが舞い込みます。 「行かないで!」と懇願するジュヌビエーブ。 「出来る事なら行きたくない。でも君も判っていると思うが、、そうする事は出来ない。」と答えるギイ。 Love theme from "Les parapluies de Cherbourg" 「愛してる!愛してる!」と叫びながら、シェルブールの駅で見送るジュヌビエーブ。 彼を戦場に見送った後、ジュヌビエーブは妊娠している事に気が付いた。 All the Umbrellas in Cherbourg 映像が前後していて判り難いですが・・・。 アルジェリアの戦場からのギイからの便りが途絶える。 ジュヌビエーブは彼の安否が気になりとても不安になってしまう。 母親の店が経営難に陥ったのが重なって、彼女は裕福で優しい宝石商と結婚する事になった。 戦場から帰って来たギイを待って居たのは失望・・・。 そんな彼は優しい女性マドレーヌに出会う。 シェルブールの雨傘1幕1 二人は結婚してガソリンスタンドを経営する事になった。 Ending of "The Umbrellas of Cherbourg" クリスマスイブの夜。 ガソリンスタンドの事務所でクリスマスの飾り付けを行っているマドレーヌ。 プレゼントを買いに息子を連れて出掛けるマドレーヌと入れ替わるように・・・。 ジュヌビエーブが給油に訪れた。 ジュヌビエーブの娘が、さかんにクラクションを鳴らす。 ギイが客の求めを聞きに車に近付いて。 お互いに気が付く二人。 「寒いわ。」 「事務所にどうぞ・・。」 「ここは暖かいわね?」 「私が結婚して・・シェルブールに始めて戻って来たの・・。」 ・・・ 「綺麗なツリーね?」 ・・・ 「あの女の子の名は?」 「フラワンソワ・・あの子は貴方に似ているでしょう?」 ・・・ 「貴方は良いの?」 「あぁ、僕はこれで良い・・・」 別れて行く二人。 直ぐに彼の妻と子供が帰って来て事務所に入って行く。 | |
結局、長々と書いてしまいました。最後までお読み戴いて有り難う御座います。 youtube の画面を見て、台詞を書きました。 所々おかしな訳詞が有るかも知れませんが、ご了承下さい。 細切れの映像では感動出来ませんよね?楽天市場で売られているDVDです。 クリックすると販売ページに入れます。
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涙を乾かす意味で、下記の映画もお勧めです。 "I'm Singing in the rain", Gene Kelly
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我が青春の時を懐かしく思い出して(アシジの聖フランシスコ) アシジの聖フランシスコ ORACAO DE SAO FRANCISCO DE ASSIS 久し振りに「アシジの聖フランシスコ」の映画を観ました。私はカトリックなので当然のように慣れ親しんだ映画のジャンルになります。 1972年にイタリアとイギリスが共同製作した映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」です。 この映画は世界中、そして日本でもヒットした映画です。 きっとご存じの方が多いのではと期待しています。如何ですか? キリスト教の宗教映画ですが、それ程、宗教色は無いと思います。青春映画とミュージカル映画のおつもりでご覧下さい。 今回、この映画を皆様にご案内致すつもりになったのは、アシジの聖フランシスコの生き方を知って戴く為です。 子供の頃から彼の伝記『聖フランシスコの小さい花(I Fioretti)』を読んで育ちました。 彼は太陽や月を兄弟姉妹と呼んで、自然のあらゆる物を兄弟として大切に思って居ました。 また小鳥たちに話し掛けると、その小鳥たちは十字の方向へ飛んで行ったと、その本に書かれています。 世界中で彼を好きな人々が多いのは、その自然保護の精神が中世の時代に彼が表現していたからです。 この映画の題名が「ブラザー・サン シスター・ムーン」そのまま彼の生き方を表しているタイトルだと思います。 皆様も自然を兄弟のように感じて大切になさる気持ちを感じて下さればと思って居ます。。 この映画のあらすじはこちらのウィキペディアでご覧下さい。 ブラザー・サン シスター・ムーン 大昔に私が彼の物語を読んだ時に、キリストが彼の夢に現れ、「誰か教会を支える者は居ないか?」崩れかけた教会を肩で支える人として、フランシスコに訴えました。 彼は実際に崩れたサン・ダミアノ教会を再建しろと言われたと思って、その教会を再建しました。 その様なユーモラスで人間的な面が私には身近に感じて大好きです。 カトリック教会だけでなく、イギリス国教会(聖公会)でも、彼は「第二のキリスト」として尊敬されています。 映画の中でハンセン氏病の人達に手を差し伸べて居る姿が描かれていますが、実はこの映画が公開されていた時、私は奇しくも国立ハンセン氏病療養所でボランティア活動を行っていました。 他にも彼を描いた映画は有りますが、私はこの映画をとても好きになっています。 宜しければ下記の youtube の動画データをご覧下さい。 Francesco, Chiara e i lebbrosi フランシスコは騎士になる前に、クララを野で見掛けます。 彼女に付いて行ったフランシスコは、クララがハンセン氏病(ライ病)の人達にパンを捧げに行ったのだと知ります。 中世の当時、ハンセン氏病は神からも見放され、その人の罪の結果でこの病気になったと考えられて、この人達を忌み嫌っていました。 Brother sun, sister moon-San Francisco-(Franco Zeffirelli) 戦から帰ったフランシスコは生死を彷徨う大病になってしまいました。 ふと気が戻った彼は、窓の外でさえずる雀に屋根の上をフラフラと近寄って行きます。 Chiara a Francesco: "Secondo me eri matto prima" 野原に居るフランシスコにクララが気付いて声を掛けます。 「貴方は気がおかしいとみんなが言っているわ。小鳥に話し掛けたり一緒に歌ったり、花をじっと見詰めているから・・・」 「でも、私は戦争に行く前が貴方がおかしかったと思うの。」 Francesco - L'Insopportabile Contrasto この場面は御復活(イースター祭)の教会典礼で、続唱「Victime Pascari Laudes 見よ!神の子羊」を歌っているシーンです。 フランシスコは、裕福な家族達が座る席で居ますが、教会の後ろや外では貧しい人や重い病に苦しむ人達が居る事に気が付きます。 ここで彼は自分が裕福な事に疑問を感じて、神の前に平等とは一体何なのかを考えるのでした。 蛇足ですが、この歌はネウマ譜と云う四線譜で書かれています。 私はこのネウマ譜を研究していますが、この聖歌も一度お聴き下さい。 Victimae paschali laudes St. Francis - Brother Sun, Sister Moon - Song 彼は御復活の教会で「違うのです!」と言って教会から飛び出していきます。 草原を走って行くと、そこには崩れたサン・ダミアノの教会が・・・。 ここでフランシスコは何かを感じるのでした。 If You Want Your Dream To Be ... Donovan - San Damiano Song (Montage) 十字軍に従軍していたフランシスコの友人ベルナルドはアシジの町に戻ると、タベルナ(居酒屋の様なお店)で、旧友達と再会しました。 その場にフランシスコが居無い事に気が付いて、「フランシスコはどうしている?」と尋ねます。 アントニオが「彼はこの前の戦から帰って、気が変になって家を飛び出して乞食のような生活をしている。そして今はサン・ダミアノの教会を再建しているよ。」 それを聞いたベルナルドは、「友達なんだろう!どうして彼を助けないんだ!」と言い出してタベルナを飛び出す。 ここからこの動画の場面: サンダミアノで一生懸命に石壁の石を積み上げているフランシスコに、ベルナルドは最初は本当におかしくなったと思い込んだ。 しかし、彼の真摯な姿を見ているとフランシスコの生き方に共感してしまい、彼は協力する内にフランシスコと一緒に生活を始める。 この間に下の動画が入ります。 完成したサン・ダミアノの教会で貧しい人や病気の人達が集まって献堂式を祝う。 この動画には写っていませんが、アシジの教会では裕福な人達だけで、多くのその子供達がフランシスコと一緒になってその教会に居ず、寂しい典礼が続いて居る。 St. Francis Prayer - Brother Sun, Sister Moon フランシスコの友人達も裕福な家庭を捨てて、彼と共に暮らし始めます。 麦刈りの手伝いをしますが、最下層の農民からは、「お金持ちの坊ちゃんが、どうしてこんな事をするのだ!」と反発されてしまいます。 お昼時間になって、農民達は貧しいパンだけの食事を食べますが、フランシスコ達には何も有りません。 見かねた若い農民が一切れのパンをフランシスコに与えました。 フランシスコは感謝しながら「食前の祈り」を始めます。 農民達もその姿に、跪いて一緒に祈りを始めたのです。 小麦畑にクララが走って来ます。 「フランシスコ!」 その声にフランシスコは麦刈りの手を休め、 「クララ」 と答え近寄って行きました。 彼女はフランシスコの生き方に共鳴して、彼らと同じ様に生活したいと望んだのです。 ここでクララの台詞は有名な「フランシスコの平和の祈り」が使われています。 実際には彼が作った祈りではありませんが、世界中のカトリック教徒が愛唱している祈りを紹介致します。 平和の祈り 主よ、わたしを平和の道具とさせてください。 わたしに もたらさせてください…… 憎しみのあるところに愛を、 罪のあるところに赦しを、 争いのあるところに一致を、 誤りのあるところに真理を、 疑いのあるところに信仰を、 絶望のあるところに希望を、 闇のあるところに光を、 悲しみのあるところには喜びを。 ああ、主よ、わたしに求めさせてください…… 慰められるよりも慰めることを、 理解されるよりも理解することを、 愛されるよりも愛することを。 人は自分を捨ててこそ、それを受け、 自分を忘れてこそ、自分を見いだし、 赦してこそ、赦され、 死んでこそ、永遠の命に復活するからです。 私は文語体の時代でしたので、下記の祈りの方がしっくりとしています。 平和の祈り ああ主よわれをしておんみの平和の道具とならしめたまえ われをして憎しみあるところに愛をもたらしめたまえ 争いあるところにゆるしを 分裂あるところに一致を 疑いあるところに信仰を 誤りあるところに真理を 絶望あるところに希望を 悲しみあるところによろこびを 闇あるところに光をもたらしめたまえ ああ主よわれをして慰めらるるを求めずして慰むることを求めしめ 理解さるることよりも理解することを 愛さるることよりも愛することを求めしめたまえ そはわれらは自ら与うるがゆえに受けゆるすがゆえにゆるされ おのが身をすてて死するがゆえに永遠の生命を得るものなればなり 滝が落ちる所で、トンスーラ(剃髪)が始まります。 男性はこの時代は髪の殆どを円形に剃っていますが、女性は髪をザンバラに切るだけです。 こうしてクララもまた清貧の生活に入っていきました。 ブラザー・サン シスター・ムーン フランシスコと彼の仲間は、ローマに旅立って行きました。 それは彼らの集まりを修道会として教皇様から認可して戴く為です。 当時の教皇座が在ったラテラノ教会で、教皇に謁見が許されます。 彼の清貧さに心打たれた教皇は、彼らを讃えて修道会として認可するのでした。 アシジに戻ったフランシスコは、自然を愛して人々も愛する生活に戻るのです。 DVDでこの映画を御覧になりたい方は下記のリンクで購入出来ます。 楽天ブックス ブラザー・サン シスター・ムーン
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我が青春の時を懐かしく思い出して(ソング オフ ノルウェイ) 北欧のショパンと言われていたノルウェイの作曲家「エドワルド・グリーク」の半生を描いたミュージカル映画です。 「サウンド オブ ミュージック」の陰に隠れて、それほど有名でないかも知れませんが、私は大好きな作品の一つです。 この映画のあらすじはこちらをご覧下さい。ソング オフ ノルウェイ 監督のストーンは、撮影所のスタジオで映画を製作する事を良しとせず、ロケ中心主義を貫いた監督です。 例えばノルウェイのリレーハマーでのロケは、日本の明治村に相当するノルウェイの古い建物をマイハウゲン博物館で撮影されました。 氷点下30℃の気候の中で行われた撮影は過酷を極めたようです。 また、この町には1800年代に建てられた停車場とその頃の蒸気機関車が在って、そこでも撮影されたそうです。 大邸宅の場面は残念ながらノルウェイではなく、イギリスのロンドンのハイゲイト地区のクロスフィールド邸がベルイ家の邸宅として撮影されたそうです。 他にはサフォークに在るヘブンニンガム・ホールの1779年に建てられた大邸宅で、ここではグリークがリストに出会う場面を撮影しています。 もう一つ、同じサフォーク州のイックワーズの大邸宅でグリークがイプセンと会うシーンが撮影されました。 ノルウェイのベルゲンでは、野外博物館カムル・ベルゲンで撮影が行われています。 この博物館は、18世紀の建物だけでなく当時の家具や内装も保存されていて、ストーン監督はここを気に入って映画製作を進めたようです。 その後にデンマークのアールスのデン・ガムル・ビー野外博物館、オデンセの野外博物館フネン村などを利用して撮影が行われています。 この様にこの作品は、古きヨーロッパの良き時代を映像に収めた素晴らしい音楽映画です。 いつもの様に、youtubeの動画データをご覧下さい。 先ず、グリークの紹介ビデオをご覧下さい。 Grieg's house これからは映画「ソング オフ ノルウェイ」の動画データです。 Song of Norway - Opening, Return from Intermission, & Closing Themes Song of Norway - Hill of Dreams Song of Norway - Theme sung Song of Norway - I Love You Song of Norway - At Christmastime Song of Norway - The Hall of the Mountain King Song of Norway - Sleigh ride 今回はDVDを探しましたが、有りませんでした。 CDだけでしたが、これらの映画サウンドは名曲が多いので是非お聴き下さい。
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我が青春の時を懐かしく思い出して(カトリック典礼聖歌) 私は高校生の頃に声楽の先生から歌唱法を習っていましたので、教会の聖歌隊で歌っていました。 大学生になると、どうしても自分の実力を試したくなって、合唱団で歌うようになりました。 ところでクリスマスになりましたね? 皆様が普通耳になさるのは、プロテスタントの賛美歌が殆どだと思います。 私達カトリックは、カトリック聖歌や典礼聖歌と云う聖歌を歌っています。 合唱をなさっていらっしゃる方は、良くご存知の「高田 三郎」先生作曲の聖歌が、カトリック教会では典礼聖歌として採用されています。 私も学生の頃に所属していた某放送合唱団(○○○○合唱団)でも、高田三郎先生作曲の「水のいのち」を合唱したことが有ります。 男声合唱のための「典礼聖歌」その1 高田三郎先生作曲 男声合唱のための「典礼聖歌」その2 高田三郎先生作曲 男声合唱のための「典礼聖歌」その3 高田三郎先生作曲 男声合唱のための典礼聖歌 男声合唱団コールM 第31回定期演奏会 聖母賛歌 混声合唱のための「典礼聖歌」 やまとのささげうた 混声合唱のための「典礼聖歌」 やみに住む民は光を見た (典礼聖歌305) 東京の上智大学のイグナチオ教会の御ミサのシーンです。 典礼聖歌301番 入祭唱 待降節第四主日 聖歌集122番 あわれみの賛歌 待降節第四主日 典礼聖歌38番 答唱詩篇 待降節第四主日 典礼聖歌257番4B アレルヤ唱 待降節第四主日 聖歌集124番 平和の賛歌 待降節第四主日 御聖体拝領唱 待降節第四主日 カトリック聖歌616番 きよけし 閉祭唱 待降節第四主日 大昔のグレゴリオ聖歌を四線譜の「ネウマ譜」から五線譜へ変換した楽譜です。 天使ミサ グレゴリオ聖歌については下記のページで詳しく説明致しております。 研究者の独り言 あめのきさき カトリック聖歌 マリアさまのこころ ごらんよ空の鳥 アーメン ハレルヤ 学生の頃に良く歌った聖歌です。 この作詞・作曲者とは、学生当時、彼とは境遇が良く似ていましたので、とても親近感を持って歌っていました。 とても懐かしく思っています。 |
今回の風邪は色々と考えさせられました・・・ ご無沙汰を致しております。 去年の暮れに「嘔吐下痢症」・・・実質五日間何も口に出来ない日が続き体力が落ち込んでしまいました。 まだ体調が完全に戻っていないのに、嫁ハンの実家の姪の結婚式に出させて貰い・・・風邪を引いてしまいました。 そのまま一時は良くなりかけましたが、ずっと調子の悪いまま・・・。 臥せって居て・・いつもだったらヨーロッパの古代から使われていた四線譜の楽譜「ネウマ譜」で書かれたグレゴリオ聖歌や、南米のインカ文明の民俗音楽を聴くのが普通ですが、今回は結婚時から嫁ハンと聞き始めた、嫁ハンが大ファンの「さだまさし」の曲を聴いていました。 勿論、グレゴリオ聖歌やフォルクローレも聴いて居ましたが・・・。 私が持って居るLPからご案内致します。 先ず最初に聴いたのが、さだまさし主演の映画「跳べイカロスの翼」の主題歌「道化師のソネット」です。 私達二人で見に行った映画ですが、今でもそのシーンを思い出す事が出来ます。 無難な軌道に乗ったままの人生からサーカスの世界に飛び込んだ青年(栗原徹)が、キグレサーカスの中で苦労しながら努力して、花形のピエロになり、綱渡りの最中に転落して死亡する筋書きです。 彼は全身打撲の瀕死の状態で「お客さんが心配する・・・」と言って、サーカス団は急遽代役のピエロを立て、観客の前にびっこをひきながら代役のピエロが登場し、観客は一安心する場面・・・。 実は私も・・・ピエロになりたかった人間です。勿論、サーカス団に入ったり、芸能界でピエロになる訳でなく、「道化師のソネット」で唄われているように「人の為に笑って貰える動作」をしたかった・・・。 研究所勤務時代でも、実験室や研究室では(真面目に研究をしている他の研究者の邪魔になる)真剣に自分の研究業務を遂行しなければなりませんので、執務室に戻った時に自席でアホな事を演じていました。 その内に、その事が面白いと感じた博士の一人が加わるようになって、二人でピエロを演じていた懐かしい思い出が有ります。 そして学生時代に所属していた元の○○○放送局混声合唱団で唄った堀口大学作詞「月光とピエロ」を唄えた事がとても幸せに感じた事も・・・。 「跳べイカロスの翼」のyoutubeの映像が有るかと検索してみましたが有りませんでした。 youtubeでお聴き下さい。 道化師のソネット さて、「雨やどり」は皆様が良くご存じと思います。 雨やどり それでは「雨どりあ」は? 雨どりあ 随想録より 演奏会での幕間の休憩で急に演奏が始まり、それまで賑やかだった観客が「シーン」とするのが可笑しいですよね? 「もう一つの雨やどり」これは? もう一つの雨やどり 風見鶏より 私達夫婦はこんなシーンが有った訳ではありませんが、学生時代に活躍して居たボランティアグループの活動説明の為の春の合宿に、嫁ハンが来ていて同じ斑で行動し、その年のハンセン氏病の国立療養所での一週間のワークキャンプに嫁ハンが参加して呉れて、それから私達の付き合いが始まりました。 このワークキャンプで嫁ハンにはファンクラブが出来て吃驚した事も・・・。勿論、私も女子高校生を中心としたファンクラブが有りましたが・・・。 もしも嫁ハンがボランティア活動に興味を示さなければ、今の私達が存在していなかったと思います。 この微笑ましい「雨やどり」シリーズは、その頃の思い出を懐かしく感じさせられる曲です。 この曲は長男が小学校を卒業して、九州の中高一貫校へ行っていた頃を思い出す曲です。 さだまさしも高校生の頃に家元を離れて、九州から関東の学校へ行って居たそうです。 その時の彼の父親の気持ちを描いた唄ですが、我が家でも同様なイメージを感じさせられて、印象深い唄の一つです。 高松空港から伊丹空港(経由して九州)へ飛び立つ長男を見送り、私の横で涙に暮れる嫁ハン・・・。 勿論、私も長男の事を心配していましたが、もっと心配だったのは嫁ハンでした。 小学校を卒業したばかりで、誰も知らない所へ息子を見送る母親・・・。 帰って来て元気な顔を見るまでは、本当に心配の毎日だったようです。 案山子 随想録より サナトリウム・・・皆様はそこをどの様な所だと思われますか? 私は子供の頃に兄が副院長を務めていた病院に付属するサナトリウムが遊び場でした。 日永一日、日光浴をしたり本を読んだりしている患者さん・・・。 私は大きな病院から渡り廊下で繋がっている結核のサナトリウムへ忍び込むのが大好きでした。 それは看護婦と鬼ごっこが出来るから・・・。 感染したら大事!と血相を変えて追い掛ける看護婦を尻目に、私はカーテンで仕切られた大部屋の高いベッドの下を潜り抜けては大喜びで遊んでいました。 でも、次々と仲良くして貰っていた患者さんのベッドが空になっているのを目にして・・・。 子供心に悲しいと感じた事が何回も・・・。 療養所 (サナトリウム) 随想録より 第三病棟 随想録より この曲を聴いて下さい。 椎の実のママへ 如何でしたか? さだまさしの叔母さんの生涯を唄った曲です。 私の大好きな唄「精霊流し」を、彼が作曲する切っ掛けのお話しです。 それまで、もの悲しい曲だと思って居た「精霊流し」が、この曲を聴いてからはもっと悲しい曲になりました。 ベッドの中でこの「椎の実のママへ」と「精霊流し」を聴いていて、目からは暖かい物が・・・。 精霊流し 長崎では立派な精霊流しの舟を作るのですね! カトリックの私には不思議な光景です。 暗い話になりました。 気分を変える為に、この曲を! 城のあるまち 写真は桜が満開の丸亀城本丸の天守閣です。 丸亀城は香川県でも有数の桜の名所です。 これは私が住む丸亀市に在る丸亀城と街を唄った曲です。 子供の頃から遊び場だった丸亀城・・・・。 唄の中で唄われている「見返り坂」や「石垣」などを聴くと、懐かしい思い出が・・・。 丸亀は武士の内職が元で、うちわの生産で全国の9割が丸亀で生産されています。 「月菜汁」・・・これは子供の頃から聞いた事も食べた事も無い汁ですが、給食コンクールで一番になった献立らしいです。 さだまさしの唄を聴きながら思い出してしまった私の思い出です。 今度の一連の病気で拗らせたのは、いつものように無理をしたからです。 それは、私の研究案件で「視覚障害者に擬似的に周りが見えるように出来る補助機器」があります。 二つの方式を考案しているのですが、両方式とも色彩を視覚障害者の方に認識して頂けるようになりませんでした。 それが、嫁ハンの姪の結婚式に出席した折り、ステンドグラスを見た時に思い付いて、その場から動けなくなりました。 「こうすれば色を認識出来る!」 嫁ハンの親戚にはいつもながらに変人だと思われたに違いありません。 帰宅してから、その動作原理を検証するのに無理をしてしまい、病気を悪化させる事に・・・。 この視覚補助器は、私が属する学会の代表である大阪大学大学院教授に簡単な実験と報告した時、また去年に博士になった長男にこの機器の説明をした時も、「確かに擬似的に見える!」と判断して貰えました。 決して独りよがりの研究では無いのですが、何分研究費が底をついてしまい、実験機器や試作機器を作製購入する事が出来ずに研究が前に進みません。 そして先日、いつもは見ないテレビを観ていると、私の他の研究案件に近い機器が発表されていました。 工学機器は先に発案や動作原理を発見した者が勝ちです。 詳しい事をここで書くと、同じ様に研究をしている研究者には、直ぐにその方式を見破られてしまいます。 そこで研究を進めたいと思いながら、焦ったように色々と考察していました。 その様な無理が祟って、今までご無沙汰を申し上げる事に・・・・。 研究費を儲ける為に書いた私の電子本がもっと売れてくれたらと思って居ます。 そう言えば先日の芥川賞の受賞者「円城 塔さん」の経歴:東北大学理学部物理第二学科卒、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了の経歴を拝見し、理系の人が文系でも認められると安堵した気持ちになっています。 でも私の作品は・・・・・? もしも私の作品にご興味が御座いましたら、下記のページにお越し下さい。 私の電子ブックの作品案内 宜しくお願い致します。 あっ! 私のペンネームは「亀山 築城 かめやま ちくせい」と申します! |
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アンネの日記 今朝のニュースで、「アンネの日記」を書いたアンネ・フランクとその一族の遺品が、ドイツ中部のフランクフルトで展示されるようになると知りました。 フランクフルトのユダヤ博物館に増設される「ファミリー・フランク・センター」に、数百点の遺品が展示されるそうです。 アンネの一族は16世紀からフランクフルトで住んでいて、ナチス・ドイツの迫害にあってオランダのアムステルダムへ移住し、そのオランダがナチス・ドイツに占領された後は、隠れ家(屋根裏)で生活をしていました。 1944年、アンネを含む家族と一緒に隠れていた他の家族とともに捕らわれて強制収容所へ移送されました。 翌年、アンネはその強制収用所の中から一歩も出ることも無く、15歳でその若い命を閉じました。 私は小学校の時に「アンネの日記」を読み、戦争の醜さと残虐な面を知りました。 現在住んでいる家を自分で設計した時、かのアムステルダムのアンネが住んだ家のように「屋根裏部屋」を作ってみました。もちろん、中で数家族が隠れて住むことは不可能ですが、心のどこかにアンネに繋がりたいと云う気持ちが働いていたのだと思います。 ユダヤ人狩りの探索の手に怯えながら、それでも人類の「善の心」を信じて、彼女は精一杯明るく毎日を過ごします。 隠れ家生活の途中に、逃げ込んできた他の家族が増えて、自分たちの居住スペースが小さくなったり、食料が枯渇したりする中、同居人の息子ペーターと淡い恋が芽生え、隠れ家の入り口の偽装した本棚がナチスの手で壊された時、思わずペーターとキスをする場面では、その映画を観ていた中学生の私はどぎまぎしたのを覚えています。 ユダヤ人と言うだけで差別され、小さな居住区に押し込められ、ペストやコレラなどの伝染病が発生するので、ヨーロッパ各地では「悪魔の民族、キリストを処刑した民族」と迫害され続けていました。 ローマ帝国の植民地として征服されたユダヤ王国(現在のイスラエル)・・・。 それ以後は自分たちの国を無くして世界中を転々と移動するしかなかった民族です。 そしてやっと住み着いた国でも迫害され続け、このような「アンネの日記」のようなことがナチス・ドイツの蛮行で起きました。 あまりにも有名な日記なのでほとんどの方はご存知だと思います。 youtubeに私が観た映画ではありませんが、「アンネの日記」の最初の場面のデータがありました。 彼らの胸の黄色いアップリケ・・ユダヤ人はこれを付ける様にナチスの命令が出ていました。 この「六芒星」は「ダビデの星」とか「ユダヤの星」、「ソロモンの封印」とも呼ばれて、ユダヤの象徴として使われていました。 その「ダビデの星」をナチスはユダヤ人差別の手段として使った事になります。途中アンネの父親(オットー・フランク)がアンネにプレゼントするのが将来の「アンネの日記」になる日記です。 ご覧下さい。 The Diary of ANNE FRANK (Part One) 私はカトリック教徒なので皆様に紹介するのが妥当かどうか判りませんが・・・最後にちょっと変わったプロテスタント教会(アンネのバラの教会)が兵庫県西宮市甲陽園に在ります。 ここにはキリスト教の伝道目的だと思いますが、「アンネ・フランク資料館」が在るのをご存知ですか? 事前に電話かメールで予約すると毎週土曜日午後1:00PM〜5:00PMに見学が出来るそうです。 |
私が中学生の頃に観た映画です。
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アンネの日記増補新訂版
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楽天ブックスで販売されている本(漫画)です。
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楽天ブックスで販売されているアニメのDVDです。
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楽天ブックスで販売されている「アンネの日記」探訪本です。
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ところで皆様はネウマ譜(四線譜の楽譜)で書かれたグレゴリオ聖歌をご存知ですか? 私のホームページでネウマ譜とyoutubeのグレゴリオ聖歌のデータをご案内致しております。 下記の「研究者の独り言」のリンクからお越し下さい。 「研究者の独り言」 このページにいらっしゃる方は、グレゴリオ聖歌にはご興味が無いのでは?と思います。 上記のグレゴリオ聖歌はヨーロッパの中世の歌曲ですが、この下のリンクは現代曲をグレゴリオ聖歌風にアレンジした歌ばかりです。 サイモンとガーファンクルの歌やビートルズ等の歌もご紹介致そうと準備致しております。 下記の「もう一つのグレゴリオ聖歌?」のリンクからお越し下さい。 「もう一つのグレゴリオ聖歌?」 このページにいらっしゃる方は、民俗音楽にはご興味が無いのでは?と思います。 サイモンとガーファンクルが歌って有名になった「コンドルは飛んで行く」、加藤登紀子と長谷川きよしが歌った「灰色の瞳」などをご存知の方もいらっしゃるのでは? 私のホームページで民俗音楽(インカ文明の音楽)をご案内致しております。 下記の「民俗音楽へのお誘い」のリンクからお越し下さい。 「民俗音楽へのお誘い」 インカの音楽より、もっと御存知無いのがその他の地域の民俗音楽では無いでしょうか? 私のホームページでは、インドネシアのバリ島の「ガムラン音楽」とインドのオリッシをご案内致しております。 下記の「世界の民俗音楽のご案内」のリンクからお越し下さい。 「世界の民俗音楽のご案内」 |
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